現在の贈り物 It presented them the "Present".
 

 彼女・・・フィルが心を病んだのはいつからだったろうか。

 今日も彼女はさび付いたカミソリを右手に持ち、左の腕ををかすめるように振り下ろす。

 電撃にも似た、甘く愛しい痛みの後に一瞬遅れて腕から一筋の血が流れ始めた。彼女の左腕には手首から、二の腕に至るまで一定の間隔で規則正しく傷痕が残っている。

 ただ、世界の全てが自らの敵であるかのように思えた。

 生きることは辛かった。
 期待されることが重圧だった。
 愛されようと努力する自分が大嫌いだった。
 愛されるために良い子で居ようとするのに疲れ果てた。
 最も愛してほしい助けてほしい人に裏切られたのが哀しかった。
 裏切られてなお、愛されたいと思いながらも、愛してほしいと叫べない自分がイヤだった。

 望んだ賞賛や、愛が与えられないのだと知ったとき、彼女の心に一筋のヒビが入った。

 何か、ある種の興味本位で彼女はカミソリを腕に当てて切った。
 その時、最も愛していたはずの、最も愛してほしい人の言葉は、とても冷たいものだった。夫、ヴィンスの言葉を彼女は忘れない。
 「バカな事はやめろ」

 誰のせいで、こんなことになっているのか。

 フィルは怒りのままに彼を部屋から叩き出すと、部屋の隅で泣きながら自らの腕を切り続けた。ポタポタと落ちる鮮血の一滴一滴が作る血の波紋を見ていると心が落ち着いていくかのようだった。

 その日から彼女にとって、その小さなカミソリだけが心の拠り所となった。

 彼女は今日も部屋に篭って陰鬱な日々を過ごす。
 その日も窓からはゲフェンの曇天が覗いていた。

 「クスクスクス」

************ 

 

 ヴィンスは途方にくれていた。
 妻のフィルが心を病んでからというもの、彼の生活も荒んだものとなっていた。

 去年までは、彼とフィルは仲睦まじい夫婦としてゲフェンでも有名だった。

 貧しいながらも、二人で支えあって、それなりに幸せに生きていた。

 クリスマスのプレゼントを買う余裕が無いとなれば、彼は自慢の金時計を売って、髪の美しい妻のために櫛を買った。
 妻もまた、自らの美しい髪を切り売りして、夫の自慢の金時計につける鎖を買った。

 お互い、その時は驚きながらも笑って、互いの愛に感謝していた。使えなくなってしまったけれど、それらは二人にとって何にも代えがたい宝物だった。

 それから、彼は金時計を買い戻すため。妻の想いに応えるために寝食を惜しんで必死で働いた。
 朝と無く、夜と無く彼は働き、時計を買い戻そうとした。

 そんな生活の中で、フィルもまた仕事に出て、家計を支えてくれて、彼は彼女の献身的な働きに感謝していた。
 互いに働く中で過ぎ行く日々。

 互いにリズムの違う生活の中で、朝しか顔を合わせぬ日々すらある。朝だけでも会えれば良い方で、互いに家には寝に戻るような生活だった。

 そうした生活の中で、たった一度の過ちを、ヴィンスは犯した。
 思えば、どうしてそうなったのかすら解らない。同じ職場のアルケミストの女に誘われるままに彼は関係を持ってしまった。そして、その日、場末の宿から二人で出てきたところで妻とばったりと出くわしたのだ。

 その時、全てが壊れてしまったのかもしれない。

 心は陶器に似ている。
 一度キズが入れば戻らず、一度割れれば元には戻らない。

 彼は妻に涙ながらに謝ったが、妻は何も言わず、いつものようにただ微笑んでいた。それは、背筋が冷たくなるような生気の無い、笑いの抜け殻とも言えるようなものだった。彼はその時の妻の顔を今でも思い出せる。

 妻はその日から、部屋に篭るようになった。ちょうどその頃、彼女は勤めていた店の店主が死んだ事もあって、仕事もパッタリと辞めてしまった。
 ある日、部屋を覗くと妻は自らの腕を切り刻もうとしていた。彼は部屋に入り、カミソリを奪い取ると「何をバカな事をしているのだ」と、彼女を問いただし、激しく叱責した。

 その日から、妻は日々腕に刃を当てるようになった。

 そのたび、彼は妻にそうした行為をやめさせようと叱責した。

 優しいほうが良いかと思い、優しくフィルを抱きしめて謝ろうとすると、フィルは何かにおびえたように自分を突き飛ばし、ガタガタと震え、泣いて謝りながら部屋から出て行くように叫んだ。

 そして、その日、フィルはいつもよりさらに激しく自らを傷つけた。何かを流しだそうとするかのように。

 薬が切れるとフィルは、発作のように殺してくれと懇願する。
 彼女は自らの腕を切り、血を流す。
 大量の薬を服用して、死んだように眠る。
 死なせてくれと願う。
 死にたいと叫ぶ。

 ヴィンスにはそれが理解できなかったし、どうすれば良いのかも皆目見当が付かなかった。

 もう、元の生活には戻れない。彼には漠然とした思いがあった。

 「クスクスクス」

 

************ 

 

 「クスクスクス」

 妻の篭る陰鬱な家を抜け出して、仕事に向かう途中でヴィンスはその笑い声を聞き、立ち止まった。

 見ると、薄暗い路地に真っ黒なローブを着た女が立っている。ローブに刻まれた紋章は近隣にある、聖エリスティア乙女修道騎士会のものだった。
 ローブの奥にうっすらと見える顔を見ると、まだあどけなさの残る少女であったが、そんな容貌とは裏腹に彼女の深緑の眼光は鋭利な刃物にも似た凛然たる鋭さを秘めていた。

 「何か用かい?」
 男は肩をすくめて少女に問いかけた。

 「不幸なる者よ。私は聖エリスティア乙女修道騎士会の、特別異端審問官見習い・・・不幸ならばお救いしましょう」

 「遠慮しておくよ。キミにはちょっと難しいんだ」

 男はさびしそうに笑って、また歩き始めた。
 自分はきっと不幸なのだろう。だが、だから何だというのだ、神に何が出来るのだろうか。彼は一度後ろを振り返って、少女がついてきていないのを確認してから、深々とため息をついた。それに、自分の境遇は年端も行かぬ小娘に話すようなものではない。

 救ってもらえるならば、救ってもらいたい。
 だがもう、妻を救えるものなど何も居ないのかもしれない。
 彼は時折妄想する。

 自らの手で妻を殺し、自らも命を断つ事を。それはきっと、とても心地よく美しく、晴れがましい事なのだろうと思う。その悲劇的な情景を思い浮かべて、彼は悦に入るのだ。

 「クスクスクス。そんなに不幸なのにムリをしている」

 また、少女の声が聞こえた。
 どこをどう先回りしたのか、少女は自分の目の前に立っていた。ローブからのぞいた口元が笑っている。まるで嘲笑うかのように。

 ざわりと、全身が総毛立つような不快感に、ヴィンスは奥歯を強く噛み締めた。

 「な、何の用だ」

 「今日はクリスマス・イブですから。プレゼントです。」

 少女の口元が悪魔のように無邪気に笑う。
 残酷な刃のような白い歯を見せて笑いながら、少女は小さな小箱をヴィンスに向かって差し出した。

 「これは・・・何だ」

 「不幸なる者よ、あなたが不幸ならば救いを与えましょう」

 ヴィンスはいぶかしげに箱を受け取った。相手が教会の者である以上、よもや何か悪巧みと言う事もなかろうと判断したためである。

 箱の中には、小さな小石が一つ入っていた。

 「何のつもりだ?」

 彼はため息をつきながら、その小石を少女に差出し、返そうとしたが少女はただ、微笑むばかりである。

 「それなるは、時の涙。もし、これを握り締めて、戻りたい時間を思い描けば、貴方をその時へと送るでしょう。ただし効果は2時間限り・・・。貴方が望むのならば、過去を・・・変える事ができます」

 少女の言葉にハっとして、ヴィンスは石に視線を落とし、固唾を呑んだ。喉がカラカラに渇いていた。嫌な脂汗が全身から噴出してくる。もし、これで過去を変えられるのならば・・・。

 ヴィンスが半信半疑ながらも、石を握り締めて・・・戻りたい日を思い描こうとしたとき、少女が「あ、待ってください!」と、声を上げた。

 少女は少し言いにくそうに、小さな封筒を男に手渡した。
 「あなたが戻ろうとしているのは、今年の4月8日ですよね?お願いがあるのです」

 少女の顔からは、先ほどまでの得体の知れない自信と、不気味なまでの冷たい笑顔は消え果て、何かを必死で伝えようとする、年相応の少女の顔になっていた。

 

***********

 「クスクスクス」

 薄暗い部屋の中で笑い声が聞こえたものの、フィルはそれを幻聴だと思って黙殺した。
 先ほど、医者からもらった薬を服用したのだ。あの薬を飲むと、様々な負の衝動は収まるが、幻聴や幻覚などの症状が現れる事がある。

 「クスクスクス」

 再びの笑い声に、フィルは顔を上げて、視線を泳がせて声の主を探した。
 見れば窓辺に、ローブを着た女が一人座っていた。

 女はフードを脱ぎ、柔らかに笑った。
 「メリークリスマス。私は聖エリスティア乙女修道騎士会騎士団長エリーシュカ・プリセツカヤ。あなたを救いに参りました。」

 バカバカしい。フィルはその騎士の女を黙殺して、目を瞑り再び妄想の世界に篭ろうとした。
 頭にめぐるのは壊れた妄想。歪んだ世界。

 もし、自分が居なければ夫はもっと幸せなのだろう。自分さえ居なければあの女ときっと幸せに過ごすだろう。

 そう理解するほどに、彼女はやるせない気持ちになる。行き場を失った衝動と、焦燥と不安を排出するために、腕から瀉血を行って流し出すのだ。

 「愛されたいのに・・・愛されるために、愛してほしいと言えない。哀しい人」

 エリーシュカと名乗った女は無遠慮に部屋の中に踏み込むと、フィルの近くにしゃがみこんだ。
 「本当は愛されたいくせに」

 ぐさりと、心をえぐるような言葉だった。

 ヴィンスの事を愛していた。それ以上に愛されたかった。
 彼に取り込まれてしまいたい。

 彼女は時折夢を見る。

 自分の骨肉を燃やして火を焚き、自らの血で、肉や脳、内臓を煮込む。骨で作った食器と、頭蓋で作った器で彼に食べてもらうのだ。眼球を見て、やさしく「いただきます」を言って、それらを食らう。

 彼の中に溶けて一つになって・・・。

 カニバリズムな愛。

 「愛する人を取り込みたい、取り込まれたいと思う気持ちは誰にでもあるわ」

 フィルは目を見開いてエリーシュカをにらみつけた。
 心を完全に見透かされた一言に、背筋に冷たい汗が走るのを感じる。

 「だから何?」

 苛付いてフィルは厳しい語調で聞き返した。

 「えーと、まあ聖職者の端くれとして、何か救いを与えられたらと思ってな・・・」

 「救い?」

 「たとえば、過去を変えられる様な便利な道具もあるのだが」

 エリーシュカの言葉にフィルは一瞬悩んでから、首を横に振った。

 「要りません。今居る自分は過去を全て足したものだと思うんです・・・過去を変えたら、私は自分ではなくなってしまう」

 「こんなに辛いのに?」

 フィル小さくうなずいた。
 視線は焦点が定まらない様子で、意識もあまり明確ではなくなってきている。どうやら、飲んだ薬が効きすぎているようである。

 彼女に処方された薬は、そもそも精神の働きを鈍磨させる薬であるので、飲めばそういう状況になるのは必然である。彼女の場合、それが高じて定められた量以上を飲んでいるので、その傾向はさらに強い。

 そして、薬が切れるたびに発作的に暴れたり、腕を切ったりする。
 彼女自身でも、最早自分の精神は制御が効かなくなっていた。

 「ダメか・・・」

 エリーシュカは肩をすくめて、ため息をついてからその部屋を後にした。
 「上手く行かないもんだな・・・まあ、あいつが何とかしてくれるかな・・・何せ後継者だからな」

*************

 周囲が光に包まれたと思った次の瞬間、ヴィンスは一通の封筒を握り締めたまま、ゲフェンの街の中に立っていた。

 春風が吹きぬける、少し肌寒いゲフェンの街中。
 町並みこそ変わらないが、季節や野菜を売る露天で売っている野菜は確かに、4月の物だった。

 「まさか・・・本当に」

 ヴィンスは街の中央にそびえるゲフェン塔の陰を見た。塔と街の構造自体が、巨大な日時計として動作するゲフェンの街で、もっとも楽に時間を知る方法である。時間は午後3時。記憶にある過ちの瞬間まで、あと2時間ほどである。

 フィルが自分たちと出会わないようにしなければならない。ヴィンスは記憶の糸をたぐりながら走り出した。かすかに聞いた妻の仕事の話。確か、妻の働いている場所は・・・。

 一心不乱に走るあまり、ヴィンスは辻で人と衝突して尻餅を付いた。
 「も、申し訳ない」

 見上げると、真っ黒なローブを着た女が目の前に立っていた。
 その背後には、先ほど自分に小箱を手渡した少女が、同じようなローブ姿で立っている。違うのはローブに刻まれた紋章が、修道騎士会ではなくプロンテラ大聖堂のものだという事だ。

 「大丈夫か?」

 ローブを着た女が手を差し伸べた。

 ヴィンスは手を借りて立ち上がると、その背後の少女と、目の前の女を交互に見た。

 「あの・・・キミは・・・さっきの」

 少女に問いかけると、彼女は小首をかしげて、一緒に居る女の背後に隠れてしまった。小さいながらも猛禽のような鋭さを持っていた先ほどの様子とは打って変わって、少女は小型の草食動物のように警戒した様子で、一緒に居る女の裾をつかんで、覗くようにこちらを見つめていた。

 「どうした?」

 女は少女を背後に隠すようにしながら、射抜くような深緑の目線でヴィンスを捕らえた。
 本当に射抜かれ、串刺しにされたように体が動かなかった。恐怖や、戦慄とは違う、ある種の神々しさを持った畏怖が彼の体を固めて動けなくしていた。

 そこで、彼は少女に頼まれた事を思い出し、手に持っていた封筒を勢い良く女に手渡した。

 「こ、こいつを!」

 少女がヴィンスが時間を遡る間際に託した一つの願い。それは手紙を、自分と同じような格好をしたローブの女に出会うはずだから、渡してくれという、酷く不可思議なものだった。とはいえ、生来お人よしのヴィンスは、それを断ることは出来なかった。

 彼は封筒を女に手渡すと、まるで逃げるように大急ぎで走り出した。こんな事をしている場合ではない。とにかくフィルを止めないとならない。彼女が、自分に出会わなければきっと未来はもっと幸せなものになっていたはずだ。

****

 喉がカラカラになっても、心臓や肺が悲鳴を上げても、ヴィンスは構わずに走り続けた。
 妻の働く魔法具屋を目指して一心不乱に走り、彼はその店の窓辺へと辿り着く。

 薄暗い店の中で、妻が笑顔で接客をしているのが見えた。
 それは、長らく忘れていた彼の大好きな、春の日差しのような柔らかい妻の笑顔だった。

 今すぐにでも声をかけたい気持ちを抑えて、ヴィンスはじっと窓辺でフィルを見守っている。

 どれくらいそうしていただろうか。
 妻の姿が店頭から消えたと思ったその時だった。

 「やめて下さい!そのお話しはお断りしたはずです!」

 妻の凛とした声が響き渡る。
 ヴィンスは壁にぴったりとくっついて、目を閉じて耳をすました。

 「あんな甲斐性なしの男のドコが良いと言うのだね?おとなしく私の妻になれば、君の生活は一生安泰なのだよ。なんなら店の一つも任せても良い。」

 「お金に興味はありません。まして貴方にはもっと興味がありません。」

 「バカ女が!こうなったら力尽くでも俺の女にしてやる」
 「やめてください!人を呼びますよ!」

 「あいにく、店には今は君と俺しかいないんだよ!」
 「いやかああああああ!」

 フィルの絹を裂くような悲鳴がこだまして散った。

 男の怒声とともに、店内からドタバタとした振動音が聞こえてくる。ヴィンスは最早気が気ではなくなって、近くに落ちていた木の棒を手に、店の中に駆け込もうとした。

 その時だった・・・。ガシャンという陶器の砕け散る音がして、店の中に不気味な静寂が訪れる。
 「い・・・いや、どうしよう・・・ヴィンス・・・助けて、ヴィンス・・・」

 店の裏口のドアが開いて、茫然自失の状態のフィルが乱れた服を直そうともせず、ヨロヨロと這い出してきた。
 彼女は泣きながら頭を抱え、脱兎のごとくに走り出した。その方角はヴィンスの働いている店がある方向だった。そして、この魔法具店とヴィンスの働いていた店の丁度中間に、あの日・・・ヴィンスがフィルと鉢合わせしてしまった宿はある。
 呆気に取られたヴィンスはただ、店の前にへたりこんで天を仰いだ。

 止めようとしても、止めようとしても涙が溢れ出てくる。

 涙で歪む視界の中。先ほど、フィルが這い出してきたドアの近くに何かが落ちているのが見えた。それは、あの日、ヴィンスが彼女にプレゼントした美しい櫛だった。

 ヴィンスはそれを拾い上げ、空に向かって絶叫した。

 己の罪を悔いて、己の愚かさを悔いて。妻の献身に、妻の苦悩に詫びて叫んだ。

********

 麗らかな春の空は消えて、再び曇天が目の前を覆っていた。

 冷たく吹きすさぶ冬の風。

 ゲフェンは、彼が元居た冬の景色に戻っていた。

 「過去を・・・変えなかったのですね」

 ローブを着た少女が少し寂しげに言った。
 ヴィンスはただただ慟哭していた。年端も行かぬ少女の胸に抱きかかって、赤子のように泣き続けていた。

 心まで枯らすような哀しい泣き声がゲフェンの辻という辻に響き渡る。
 少女は、そっと彼の頭を撫でた。

 過去を変えて、妻に見つからないようにすれば、きっと幸せな生活に戻れる。そんな風に考えていた自分が殺したい程に憎かった。あの日、助けを求めて自分を探してやってきた妻に与えた仕打ちに、申し訳なさと、情けなさがあふれ出してくる。

 過去を変えることなど出来ようか。

 あの時もし、過去を変えてしまったら自分は一生悔いるだろう。
 過ちを隠して幸を手に入れようとしてた自分を恥じた。償いをしなければならない。

 「過去を変えなかったのですね・・・あなたは・・・優しいのですね」

 雪が一粒舞い落ちた。
 ゲフェンの空から、真っ白な雪が降り始める。少女は泣き続けるヴィンスの頭を優しく撫でる。

 「奥様はきっと、簡単には治らない」

 「構わない」

 ヴィンスは泣きながら、歯を食いしばって固い決意をした。

 「奥様は心を病んでいます。心の病は薬では治りません・・・心はガラスです・・・一度割れれば・・・もう簡単には」

 「だったら、俺がフィルを暖める。ガラスが溶けるまで暖めて、また器を作るんだ・・・」

 ヴィンスは震えながら立ち上がり、涙を袖でゴシゴシとこすってぬぐった。

 「キミには感謝しているよ・・・素敵なクリスマスプレゼントをもらった」

 彼は、帰還の間際に店の入り口で拾った妻の櫛を少女に見せた。
 「私も感謝しています・・・。クリスマスカードを渡せましたから。奥様とお幸せに」

 少女は小さく笑うと、ローブの裾を翻してその場を後にした。 

 降り積もる雪がゲフェンを白く染め上げていく。
 いくつもの悲しみを抱えながらも、時はただ流れていく。過去を肯定することも否定する事もできずに、ただ現在だけが残酷に存在する現実。

 ヴィンスは、それを受け入れて帰途へとつく。迷いは無かった。
 妻にもう一度、この櫛を・・・そして櫛とともに送ったはずの想いをプレゼントしなければならない。